ふざけた黒猫

VGプラス(Kaguya)の井上彼方といいます。

韓国語学習日記②

Duolingoは続いている。今のところ私には向いている。

 

4月2日

Duolingoは無料でもできるけど、課金するとサクサクといっぱい学習できる。

7日間の無料期間があるので、その一週間で一気にハングルをマスターしようと心を決めて、無料トライアルに登録してガシガシと文字を勉強していく。

 

4月8日

今日でトライアルが終わった。ガシガシと文字を勉強したかいあって、ハングルは大まかにわかった。

Duolingoの「文字を学ぶ」というは結構良くできているなと思った。法則とかをきちんと説明してくれるわけではないのだが、問題を解いていくとどういう法則性があるのかがなんとなく推測できるようになっている。

無料のトライアル期間が終わったので、積読してあった韓国語の本を取り出して、Duolingoをやりながらこういう法則なのかな?と思っていた発音について改めて本で読んでみたが、だいたいあっていた。

 

韓国語学習日記①

3月31日

韓国語を勉強しようと思ったまま早くも半年が経っている。新年度になる前に、まずはとりあえず第一歩を始めようと思って、Duolingoを入れてみた。

どれくらい初心者かというと、ハングルについて、「組み合わせて使う」ということくらいしかわかっていないくらいの感じ。

Duolingoだけで一から語学学習をするのは(おそらく)あんまり推奨されていない気がするけど、習慣化にはいいよと友達に教えてもらった。Instagramでフレンズを募集したら、知り合いが何人か早速友達になってくれた。

4月1日

レッスンを進めようにも文字が読めないので、Duolingoの「文字を学ぶ」というやつをせっせと進める。どうしても縦になれずに布団やソファで虚無の時間を過ごしてしまうことがあるので、そういう時にポチポチとやれるのは向いているかもしれないと思う。

何かを習慣化する、毎日コツコツやるということがとにかく苦手で、語学学習に強い苦手意識があるので、ハードルが低いのはとてもありがたい。

サボり防止に日記にしました。

袋はいりません、たぬきなので

人に化けたタヌキなのでできないことがあっても許してね、という気持ちで生きている。でもこの自己認識は、ちょっとかわい子ぶってるし、現実の私はもうちょっと害がある生きもんだとも思う。

 

この間、介護の仕事終わりにドラッグストアに行って牛乳と食パンを買った。レジに行ったら店員さんに「袋はお持ちですか?」と聞かれて固まってしまった。何を聞かれているかわからなかったのだ。

私はその時リュックを背負っていたが、エコバックや手提げバックは持っていなかった。リュックは「袋」に含まれるだろうか? でもそもそも私は買った牛乳と食パンはバイクのカゴに放り込んで帰ろうと思っていて、リュックも「袋」として使うつもりはなかった。だから「持っているか」の返事は「いいえ」だ。でもここで「いいえ」と言ったらレジ袋が欲しいという意味に取られるのではないだろうか。

というか、そもそも店員さんは、私が買ったものをエコバッグに入れるのか、リュックに入れるのか、バイクのカゴに入れるのか、はたまた手に持って帰るのかなんてことはどうでもいいはずだ。店員さんが知りたいのは私がレジ袋が必要か否かなのだから。だけどもし私がここで「袋は持っていませんが、袋はいりません」と答えたら、嫌味っぽく「あなたの質問の仕方はおかしいですよ、本当は袋がいるかどうかが知りたいんですよね、正しく答えてあげますね」と訂正していることになる気もする。それって感じが悪いんじゃないかな。

フリーズしたままそんなことを考えること2秒くらい。長い。長すぎる。店員さんからしたらそっちの方がよっぽど感じが悪い。質問にも答えず、真顔でじっと見つめてくる客なんて嫌すぎる。しかも、私は真顔でいると周りから怒っていると思われるタイプの顔立ちをしている。「袋……」と店員さんがもう一度言いかけ、ああ、やばいやばいと思って「袋はいりません」と嫌にハキハキと答えてしまう。申し訳ない。怒ってるわけでも感じ悪くしたかったわけでもなく、ただ、どう答えればいいのかわからなかっただけなんです。でも、悪意がないことを示すために今ここに書いたことをつらつらと早口でまくしたてられても店員さんは困ると思う。とりあえず大慌てでその場を去った。

あの店員さんがこのブログの文章を読むことはないと思うけど、この場を借りてお詫びします。

 

とはいえ以前の私は、「本来店員さんが知りたい情報をちゃんと質問してこないのは、接客として良くないので私のせいじゃない」くらいの感覚を持っていたように思う。

最近の私は、私のその気持ちは筋が通っているかもしれないが、別に正しくはないな、と思っている。私にとってその店員さんの質問は、質問への回答に迷ってしまう厄介な質問だ。だけど「厄介な質問だ」からオブラートを剥ぎ取ると出てくるのは「私が支払うコミュニケーションのコストを増やさないでほしい」という思いだ。でも、見方を変えれば、日頃のやり取りにおいてそこまで厳密なやり取りを迫られること自体がストレスだ、という人だっているはずだ。

ちょっと話は逸れるけど、私はメールを書くのが死ぬほど苦手だ。遅い。最近になって、コミュニケーションにおいて自分に課している(という自覚すらない)独自のルールが多すぎるのだと気がついた。7、8割伝わればいいからざっくりと送る、ということができなくて何度も推敲してしまったり、あるいは相手の質問の意図を正しく汲み取ろうとして、メールを何回も何回も読み込んだりもする。

ただこれは、残念ながら私がコミュニケーションにおいて誠実であるということではない。そんな厳密さはいらないからすぐに返信がほしいというタイプの人もいるだろうし、厳密さにコミュニケーションのコストを割くくらいだったら話が噛み合わないときだけちゃんと確認する方が楽という人だっている。厳密さを求めることによって固くなってしまった言い回しでは本来の意図が伝わらないということだってある。メタコミュニケーションを舐めてはいけない。

くだんのドラッグストアの店員さんはマニュアルに従っただけなのかもしれないし、ニュアンスが伝われば大丈夫と思っているのかもしれないし、特に何も思ってないのかもしれない。あるいは何を聞くのか忘れてしまって咄嗟に出てきた一言だったのかもしれない。もしそうなのだとすれば、「袋はお持ちですか?」という質問は、「何を聞くんだっけ……」と黙りこくっているよりは100倍良い接客だ。

そういうことが、この5年くらいでやっとわかってきた。自分に課している(とわかってきた)ルールをすべて手放すことは、自分にとってストレスフルすぎるのでやらないけど、他の人がそのように振る舞っていなくてもそれはそれ。他の人を怖がらせないように「真顔で」フリーズするようなことは避けたい。かわいいタヌキにしては怖すぎるので。

 

さて、この文章を書き上げたので仕事に戻ろうと思って、仕切り直しも兼ねてキッチンに行ってチャイを作った。お気に入りのマグカップを取りに作業用のデスクに戻ったら、カップには並々と紅茶が入っていた。そういえば、15分前くらいにも仕切り直しを兼ねて紅茶を入れたんだったな、という事実が突然ふってきてびっくりした。それもこれも人間に化けているのに耳が出ているタヌキ……に擬態した人間なので許してほしい。紅茶とチャイを飲んでお腹がチャポチャポになった。

 

3月20日追記
この記事を読んでくれた友だちに、「袋、お持ちですか?」と聞かれたら 「袋(持ってないけど要らないから買わなくて)大丈夫です」って答えたらいいよって教えてもらった。微妙にずれている質問に対する微妙にずれている返しで、その「微妙さを許容しますよ」というメタなコミュニケーションも含めて、一周回ってきれいに噛み合っていてすごく面白かった。

新年の抱負

今年やりたいことや今年の目標を50個考えてみた。そのうち20個は会社の仕事における目標なのでここでは割愛して30個のみ。

  1. 猫のトイレのカバーをつくる
  2. 編みかけの猫ベッドを完成させる
  3. こねとキャロルの絵を描く
  4. デジタルなお絵描きを上手くなる
  5. ぬいぐるみと一緒に外出する用のカバンをつくる
  6. カモノハシのぬいぐるみをつくる
  7. グローグーのぬいぐるみをつくる
  8. ぬいぐるみの同人誌をつくる
  9. 石橋濡久の誕生日アンソロジーをつくる
  10. エッセイとか短いお話をこまめに書く(月に一本くらい)
  11. 豆本をつくる
  12. 中古の家を買う
  13. 新居にグッズの展示スペースをつくる
  14. 新居のDIYをする
  15. 新居にキャットタワーをつくる
  16. 新居のベランダに巨大猫ケージをつくる
  17. パスポートを受け取りに行く(1月15日までに絶対)
  18. Wi-Fiを安いプランに乗り換える
  19. 掛け布団を新調する
  20. ソファーのカバーをつくる
  21. あたたかいニットを買う(今すぐに)
  22. 頭痛薬を予防薬に切り替える
  23. きちんと日焼け止めを塗る
  24. 原付の整備をする(オイル交換とか)
  25. 即売会用の棚をつくる
  26. 韓国語を勉強する
  27. 家計簿をつける(すでにこの10日つけられていない)
  28. モーニングルーティンをルーティンとして定着させる
  29. 読書記録をつける
  30. 登山に行く(春から秋の間に三回くらい)

診察されている猫になんと声をかけたらいいのか問題

猫を病院に連れていったときに「大丈夫だよ」と声をかけるよりも「かわいいね」と声をかけたほうがいいらしい。本当かどうかは知らないけど。

一応、これには理屈がある。

「大丈夫」という言葉の意味がわからない猫の視点で考えてみる。「大丈夫だよ」と声をかけられるのは大抵、だいじょばないときだ。

病院に行ったり、どこかに連れて行かれたり、なにかしら嫌なことが起きる時に人間は「大丈夫だよ」と声をかけてくる。つまり猫からしたら、「大丈夫だよ」という言葉はしんどいときにかけられる謎の言葉であって、安心した気持ちにはなれない。

反対に、「かわいいね」と声をかけられるのは楽しいとき、幸せなときであることが多いので、「かわいいね」と言われると安心するのだ、というのがその理屈だ。

 

うちで暮らしている黒猫のこねさんは、「こういうときにはこういうことが起きる」という状況を記憶するのが得意だ。お客さんが来たときに私とお客さんの会話の中に「おやつ」という単語が出てきたらおやつをもらえるとか、いつもより大きなカバンを出してきたら、長時間を家をあけるとか、バイクの音がしたら私が帰ってくるとか、特定のお皿を水ですすぎ始めたらウェットフードがもらえるとかとか……。

特に自分の状況に関わることは一発で覚えるし、あ、覚えているなとか、覚えていて〇〇を期待しているな、というのがすぐにわかる反応をする。

「大丈夫だよ」という言葉がネガティブな状況と結びついているということは割と納得できるし、ありえそうな気もするのだ。

 

で、先日、健康診断のために病院に行って採血をしてもらった。病院の先生に、安心させるために顔を撫でたり声をかけてあげてくださいと言われて、かわいいねぇ、天使だねぇと、私とこねさんが二人でのんびりしているときに話しかけるようなことをいっぱい話しかけていたらお医者さんに、猫への愛が強いですねと笑われた(そんなに嫌な感じではなかったけど、とにかく笑われた)

上記のような文脈を理解していないお医者さんにとって、採血をされている猫に「かわいいね」と声をかけている人間はちょっと変なのかもしれないと思う。たとえば私も、採血をされて泣きわめいている子どもに、かわいいねって声をかけている養育者がいたらちょっとびびると思うし、それと同じ感覚なのだと思う(ただしこれは、子どもは大丈夫の意味がわかるので、本当は別の問題)。

 

人間と猫とのコミュニケーションにおいて言語をどのように使うのか、というのは、人間と人間のコミュニケーションにおけるそれとはちょっと異なる部分がある。でも一方で、その様子を見ているorそれに関与している第三者の人間がいるとさらにちょっと難しくなる、というようなことをちょっと思った。

 

健康診断をしてもらってから割とすぐのタイミングで、別件でこねさんを病院に連れて行くことがあった。超音波検査で内臓の様子をしばらく診てもらったのだが、この時も検査中に声をかけてくださいねと言われて躊躇した。

こねさんのことを考えるのであれば、「かわいいね」と言った方が良い可能性が高い気がするけど、また笑われるかもしれないという、対人間での羞恥心で、大丈夫だよ、かわいいね、を交互に言うという、ちょっと妥協した声かけをした。

ちなみにこの時は、すぐそばのモニターに内蔵の様子が映し出されるのを、こねさんがじっと見ていておもしろかった。で、思わず、「それ、こねの内蔵だよ。見てるの?」って話しかけたら、またお医者さんに笑われた。

日記とエッセイの真ん中らへん① ぬいぐるみの代替わり問題

10月8日の日記 ぬいぐるみの代替わり問題

作家の藤野可織さんが、インスタのストーリーに、木でできたうさぎと白鳥の置物の写真をあげていた。いっしょに「プラスチックのうさぎととりとともだちだったんだけど、素材がだめになってきてしまったので、思い切って素材を変えてみたら、家族に、別のうさぎととりじゃんって言われて、なかみがおなじ子たちであることを理解してもらえなかった」という趣旨の説明を載せていた。

これは!!!!!! 私の大好きなぬいぐるみの代替わり問題!!!!!!

私には飛びつきたい大好きな話題がふたつある。一つは「動物のおしり」案件。動物のおしりは可愛い。コーギーのおしりが可愛いことは有名だけど、いろいろな動物のいろいろなおしりは可愛い。可愛い動物のおしりの写真が撮れたら、ぜひ私に送ってほしい。

で、もう一つが「ぬいぐるみの代替わり問題」。例えばあなたが五歳の頃、大事にしていたぬいぐるみがぼろぼろになって、養育者が勝手にそれを捨ててしまったとする。泣き喚き、何日経っても寂しそうにするあなたに養育者がまったく同じ新しいぬいぐるみを買ってきた。あなたはこれを、前のぬいぐるみと「同じもの」と思うだろうか?

可能性はいくつかある。一つは「皮」が新しくなったけど、魂とか人格のようななにかは同一だと考える。人類の細胞は4年でほとんど入れ替わると言われているけど(この数字の信憑性は知らない)多分それと一緒だ。細胞が入れ替わっても自己同一性はそのことによっては揺らがない。

もう一方で、別の人格だと考える人もいるだろう。場合によっては、きょうだいだとか、家族だとか、なにか見た目が似ていることに血縁的な根拠をつけるかもしれない。別につけなくてもいいけど。

どっちの方が正しいとかそんな話ではもちろんない。どっちもそれぞれに、大切な大切なぬいぐるみとの別れと誠実に向き合っていると思う(そもそも、たとえ誠実に向き合わなくたって他人にとやかく言われるような話じゃない)。

一代目のぬいぐるみとはぐれてしまった、とか、一代目のぬいぐるみを捨てられてしまったとか、そういうことが起きた際に時として勃発する、二代目との接し方のどうするのかという問題を、なんで私が「ぬいぐるみの代替わり問題」と呼んでこよなく愛しているかというと、そのエピソードにはぬいぐるみへの愛と、その人なりのぬいぐるみとの付き合い方が凝縮されているからだと思う。

ちなみに最初に紹介した藤野さんの話で言うと、藤野さんはそもそも代替わりとは思っていなくて、「素材を取り替えた」というふうに把握している(ように思う)ので、「これはぬいぐるみの代替わり問題だ!」と嬉しくなったのは、私の勝手な思い入れにすぎない。藤野さんのこの投稿で特に素敵だと思ったのは、「素材」という言葉の選び方だ。上手く言えないけど、魂みたいな存在が現実世界との接点に使っているもののことを、その特別さを損なわずに表現した言葉だと思った。(藤野さんがどういうニュアンスで使っているのかは全く知らない)。

このぬいぐるみの代替わり問題については、私がとても思い入れのあるエピソードが二つあって、でもそれをここで書いていると日記の領域を遥かに超えるからまた今度。おやすみなさい。

 

追伸:あなたのぬいぐるみの代替わりについての話を私に教えてください。

シマウマのしまを数える

『グッド・オーメンズ』見て、天使ではないけど天使っぽい存在の話を書きたくなった。それから京都では雪が降っていてとても寒いので、そんなお話。

 

『文体の舵をとれ』の課題作です。合評会での講評を踏まえて、少しだけ改稿しました。

 

「シマウマのしまを数える」

シマウマの縞の本数を正確に数えることができたら本物の天使になれるよ。今となってはからかわれただけだとわかるニエベの言葉を、それでもユキは忘れることができなかった。だからシマウマを目にすると思わず縞を数えてしまう。カウントは顔から始める。右目の目頭から左目の目頭まで、顔の正面の縞を数える。次は顔の側面だ。口元から始めて首に向かって数えていく。この辺りで迷いが生じる。途中で二本に分かれている縞は、一本なのだろうか、二本なのだろうか。どうしようかと迷いながら目をパチパチさせていると、数えていたシマウマが立ち上がって歩き始める。ああ、動かないで……と思いながら目で追いかけると、ユキの視線を遮るように浮かんでいるサルジュと目があった。瞬きもせずに5秒は見つめ合っただろうか。恋には落ちなかった。サルジュはくるりと向きを変え、餌やりタイムを繰り広げているコンドルの檻へと向かう。振り返らなくてもユキがついてきているであろうことはわかる。2年前、ユキがこの動物園に来た日のことを、サルジュはよく覚えている。その後数日間降り続けることになる雪が、まだ降り始めたばかりのタイミングで、サルジュたちは忙しかった。ユキを引き連れて園内を回る。バタバタと駆け回る飼育員を尻目に、園内にまばらに残る子どもたちを見つけては、その小さな手にフッと息を吹きかけて霜焼けを作っていく。早くおかえり。だってほら、振り返ってごらん。「もう帰ろう」と説得することを諦めた親たちの、くたびれ切った顔が目に入るはずだよ。こんな寒いところにいたら風邪だって引くかもしれない。子どもたちの間をまわり終えると、気の重い仕事が待っている。それぞれの動物の檻に行き、ねどこに寒気を吹き込む。冷気のふとんを眠っている動物たちにかける。動物たちは体をふるわせ、あるものたちは丸まっている体をさらに縮め、あるものたちはさらに互いに身を寄せ合う。そのあとは園内で暮らしている猫たちのところへ行き、猫風邪を拗らせている子猫の魂をそっと体から引き抜く。息を吹きかけると子猫の体はすぐに冷たく、硬くなる。ずっと横についてきていたユキの表情が険しくなるのがわかった。初日からこの仕事は酷だっただろうか。今日はもう休みなと声をかけ、カバの檻の前にいる二人連れの女性のところに向かう。少し前に見かけたときも、同じ場所で佇んでいたはずだ。貝殻つなぎをした手はすでに真っ赤に冷え切っているから、霜焼けは作らなくてもいいかなと思う。二人の手をそっと持ち上げて、左の女性のコートのポケットに入れる。体が動いたことで、止まっていた二人の時間も動き始めたのだろう。帰ろうか、と互いにつぶやき、広場を突っ切ってゲートに向かって歩き始める。足元では、ザクザクと霜柱が音をたてている。ポケットに入っている恋人の手の冷たさとぬくもりを感じながら、霜柱のありそうな地面を選んで歩く。当然まっすぐは歩けない。右へ左へとうねうね歩く足取りに合わせて、恋人もうねうねと歩いてくれることが、悠香にはじんわりと嬉しくて寂しい。広場を抜けるとショップがある。天気のせいか、そもそも閉園までは開いていないのか、シャッターはもうすでに閉まっていた。それでも店内の明かりはまだついていて、ショーウィンドウに並ぶぬいぐるみやTシャツが見えたから、ゆるゆるとそちらに近づいていく。ねえ、あのカバのぬいぐるみ、うちにお迎えしたかったな。恋人が呟く。また買いに来たらいいじゃんと悠香は答える。また、ね……。おとずれないことがわかっている「また」は空虚だ。わかっているのに言ってしまったことにムシャクシャして、恋人の目の前のガラスにハァァァと息を吹きかける。カバなんか見えなくなっちゃえばいい。ゲートに向かって歩き出すと、ポケットから恋人の手が抜かれた。きっとついてきてくれてないんだろうけど、足を止められない。振り返ることもできず、むしろわざと歩調を早くする。心がすうっと冷たくなっていく。心臓に心があるわけじゃないってわかってるのに、でも心臓のあたりが冷たい。心臓が十分に冷えたのを確認したニエベは女性の胸から手を離し、今度はショーウィンドウの前に佇む女性のところにいく。涙が流れる頬を両手で挟むと、みるみるうちに寒さで真っ赤になっていく。かわいい。ニエベは思う。泣いている人類は、かわいい。寒さの中で紅潮している頬も、かわいい。数分後には女性は立ち去り、ニエベは閉園後の園内を見て回る。ショップの窓についた結露を凍らせ、バケツの水に氷を張り、霜柱をつくり、ひらひらとせわしなく働いていると、タヌキたちにかけた冷気の毛布を剥がしている新人の姿を見つけてびっくりする。いくら新人だからって、自分たちの役割とルールを知らないはずがない。おい、と声をかける。だがこちらを向いた新人の顔があまりに思い詰めていて、次の言葉が出てこない。中途半端に茶化したような無理くりな言葉が口をつく。やめろ、どうしても天使の仕事をしたいなら、まずはシマウマの縞の本数をちゃんと数えることができるようになれ。

 

 

※『グッド・オーメンズ』の原作者、ニール・ゲイマンは現在、性暴力で告発されています。裁判になったりもしています。グオメはめちゃくちゃ好きな作品だったけど、それは私が性暴力を容認しているということではないです。